ヨーロッパ青年会委員長 竹内幸仁
私は何でも頭で理解しようとしてしまう癖があります。それは神様からの教えについても同じで、納得できないことを色々と考えてしまいます。本日は心のほこりの話を台に教えを頭で理解することの限界についてお話をしたいと思います。
心のほこり、八つのほこりの教理は天理教の教えの中でも基本的な教えの一つで、他の教理とも共通することですが、喩えを用いて説かれています。そして、その比喩は殊更わかりやすい比喩だと思っています。
人間の心は元々清いものだが、毎日色々な心遣いをしていく上で清らかさが失われ、それを反省せずに放置するとやがて親神様の心通りの守護を受けることを妨げてしまいます。それはまるで、家具や床に積もり重なるほこりのようなもので、最初はわずかな汚れでも、掃除を怠ると目につくような汚れとなっていきます。
裏を返せば、放置さえしなければ心の汚れはほこりのように簡単に払うことができ、元の清い心に復元されます。また、埃を積むこと自体は避けられないことであり、咎められることではありませんが、それを掃除する努力を怠ることは我が身にも周囲にも望ましからぬ結果を生みます。掃除を怠れば怠るほど、ほこりはつもり重なり、取り除きにくくなる。この世に悪が存在すると思えるのは、この積もり重なったほこりのせいだといわれます。
ほこりの比喩は、心の清らかさを維持するためには努力が必要であることを示しつつ、いかなる悪人も救いようのない者はなく、必要な努力さえすれば本来の清い姿を取り戻すことができるという希望を与えてくれます。
しかし、私はこの教えについて疑問に感じていたことがあります。ほこりが誤った心遣いの比喩だというのはわかりますが、人間の心が元々は澄み切っているものであるなら不純物はどこからくるのでしょうか?
実物の埃はどこからともなく出てくるように思えても、実際は古くなった皮膚や繊維などが自然界や生活の中で発生しています。同じように心のほこりが発生する仕組みを説明することはできるのでしょうか。
この疑問への答えの一端と思えることが『信者の栞』に書かれています。「八つのほこり」の章ではなく、それにつづく「誠真実」の章です。
八つのほこりは「わが心につけんばかりでなく、人にもこのほこりをつけさせぬように」とあり、続いて具体例として「己がほしいものならば、人もほしいに違いない……ほこりをつけさせまいと思えば、わがものもわけさしてわけさして頂くようにし……我が身かわいい、我が子可愛ければ、人のみをいたわり、人の子をかわいがる心を持ち、罪のにくむべきを知るならば、罪をおさせぬよう、己も罪をおかさぬように、心をはたらかし、……恨みがほこりを知った上は、人に恨まれるような行いをせんように、はらだちがほこりなれば、人に腹立たせるような言葉をつかわんよう」のようにそれぞれのほこりについて他者の視点を考慮して書かれています。
これは「自分がされていやなことは他人にもするべからず」という単純な教えとも取れますが、私はそれだけでないと思います。ほこりの心遣いはどれも自分中心で物事を捉えることに起因しますが、視野を広げて他者の視点に立つことで自分も他者もほこりを積まないことにつながることを示していると思います。裏を返せば、心のほこりとは人間の心の視野の狭さから来るものだといえます。この考えをさらに具体的に考えるようになったきっかけが私の職場にありました。
私はソフトウェアの開発者で、コンピュータのプログラムを設計したり制作したりすることが仕事です。職場では数百人の同僚とともに何万行にも及ぶコードを書きます。巨大な文書を大勢で手分けして編集するような作業ですが、構造がどんどん変わる建造物を建てるのにも似ています。できる限り計画を立てて他のチームとの連携を図りますが、周りで起きていることをすべて把握することはできませんし、うまく足並みが揃わないこともあります。
本物の建設現場ではありえませんが、下の階が存在しない状態で上の階を作ったり、壁がないところにドアを作ったりするようなことがプログラムを組む上ででは起こりえます。そういうときは当たりを付けて作業を進めたり、柱や壁を仮設したりして作業が止まらないようにしますが、こうしたその場しのぎの策は借金のように後から付が回ってくるので「技術的な負債」と呼ばれます。少しの技術的負債に害はなくても、それが放置されるとあちこちに蓄積していき、やがて開発を進める上での弊害となり、最悪の場合不具合を引き起こす可能性があります。
ここで注目すべきことは、誰も欠陥のある商品を作りたいとは思っていないのに、むしろ最善を尽くした上で結果的に課題が生まれていくということです。
心のほこりも技術的負債のようなものだと見ることができます。不完全であるがために、他者のことまで気が回らなかったり、最良の選択がわからなかったりする。悪を為そうとする意志がなくても、人としての視野の狭さによって結果的に間違いを犯してしまうことがあるのです。
この技術的負債の性質を心のほこりと比べたとき、あしきというものはないと言われるにも関わらず、払わなければならないようなものが生まれるのはなぜかという長年の疑問が氷解したように感じました。心のほこりというものはどこからともなく現れるものであるかのように語られがちですが、人間の視野の狭さや先を見越す能力の至らなさから生じるものだと考えると納得できました。
人間の不完全性については、『天理教教祖伝逸話篇』の31の話にこのような教祖の言葉があります。
世界の人が皆、真っ直ぐやと思うていることでも、天の定規をあてたら、皆、狂いがありますのやで
人間の視野や思慮の深さに限界があるということは人間が天の理を理解する上でも限界があるということです。心のほこりや天の定規といった比喩はあくまで天の理を人間にもわかりやすいように説明するためのモデルのようなものであって、天の理そのものではありません。モデルを理解したからといって、天の理を真に理解したということにはならないのですし、きっとどこまでも人間には掴みきれない領域があるのだと思います。
私は先程、心のほこりがどんなものであるか納得できたと言いました。納得できたことは確かなのですが、気を付けねばならないなとも思いました。
私が天理教校本科実践課程の学生だったころ、講師の安井幹夫先生が仰ったことが印象に残っています。ある授業で先生は「徳とはどんなものだと思うか」と問われ、私は以前聞かしていただいたことに基づいて、徳とは心の器のようなものであると説明しました。神様のご守護が常に雨のように世界中に平等に降り注ぐものだとして、心の器が小さいと少ししかご守護をいただけないし、大きければたくさんのご守護がいただける。そう答えました。
それに対して、安井先生はその考え方には落とし穴があると指摘されました。それは、自分がこれだけのことをすればこれだけのご守護がいただけるだろうと、神様からいただけるご守護が自分次第だという考え方に陥ってしまう恐れがあるということです。
徳が心の器のようなものだというのはある程度有効な考え方ではあると思います。しかし、安井先生はその比喩にとらわれて親神様のご守護に対する基本的な姿勢を見失う危険性を指摘されたのだと思います。
比喩は非常に便利なもので、教祖が様々な比喩を積極に使われたことからも教理を理解する上では欠かせないものだと言えます。しかし、喩えはわかりやすい反面、真理をすべて映すことはできません。
天の理というものはどこまでも捉えどころのないものであり、人間にその全貌を理解することはできないということを心に納めることが必要なのだと思います。
ご清聴ありがとうございました。