Tenrikyo Europe Centre
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ボルドー教会長 ジャンポール・シュードル
2026年の現在、加速の一途をたどるこの世界は、もはや理解することも、その変化についていくことも、非常に困難になりつつあります。私たちの多くは、行く先を見失い、未来に不安を感じています。
今日は、教祖の教えを通じ、現代というこの時代において私たちが「陽気ぐらし」を生きるために教祖が残してくださった方法について、共に考えたいと思います。
今日、インターネットや人工知能(AI)、そして科学の進歩のおかげで、私たちはかつてないほどの膨大な情報にアクセスできるようになり、どこにでもアクセス出来る想像を絶するようなコミュニケーションの可能性を手にしています。この世界の探求においても、極微の世界から極大の世界に至るまで、ますます遠くへと突き進んでいます。さらにテクノロジーは、産業や医療の多岐にわたる分野で、目覚ましい進歩を遂げています。
これらすべては、生活をより良くし、私たちに幸福をもたらすはずのものです。実際、工業化社会に住む世界の一部の人々にとって、生活はかつてよりも快適になったように見えます。
しかし、私たちは今なお、強欲さゆえに人類の10%が他者を犠牲にして飽食し、その一方で1分ごとに一人の子供が飢えで命を落としている、そんな世界に生きているのです。この恐ろしい現実は教祖の教えにはそぐわないものです。なぜなら彼女は次のように教えてくださっているからです。
陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。M30.12.11
また一方で、科学がもたらす新たな発見や情報は、解決策よりも、私たちが答えることのできない新たな問いをより多く生み出すことがよくあります。
何より逆説的なのは、現代の素晴らしいコミュニケーション手段を手にしているにもかかわらず、個々の人間は互いに、あるいは世間からますます切り離され、分断されているように見えることです。人々はこの広大な世界の中で、孤独と孤立を感じながら生きているのです。
現在、人々はこの世界が自分たちの努力によって成り立っているのだという間違った思い込みの中で生きており、その結果、自然の仕組みを改善したり利益を引き出したりするために、ますますそれを操作しようとするようになっています。
実社会においては、自己への閉じこもりや拒絶、そして過度に激化した競争心が、あちこちで生じる多くの危機の原因となっています。それにより家庭や社会の危機、さらには戦争さえも、地球のさまざまな場所で起こっています。
これに対処しようと、私たちは自分たちの人生に生じる問題を解決しようとして、常に知性や思考を頼りにします。ですが私たちは、知性と意識という二つの本質的なものを混同しているのです。思考あるいは知性とは、私達の肉体に備わった驚愕の道具で貸し与えられているものです。これがなければ、私たちは学ぶことも、伝えることも、自らの存在を築くこともできません。まさに現代社会の科学的進歩の源なのです。
そんな思考ではあるものの、しかし、それは心の光によって導かれなくてはならないこと、そして、その役割は何かを押しつけることではなく、心から生まれた意図を実行することであるべきだということを私達は忘れているのです。
一方、意識はそれとは別のものです。それは心に由来するものであり、私たちが自分自身を理解し、他者を理解し、人生に意味を与えることを可能にするものです。現代では、思考がほとんどすべての領域を占めてしまい、私たちは意識をないがしろにしています。
そのため、驚くべき科学的進歩と相まって、恐れや孤独、意味の喪失といった非常に深い苦しみがこの世界では共存しているのです。たとえ一見平和な社会の中にいても、私たちは喜びや満足のうちに十分に生きることはできません。というのも、不安や恐れの感情が常に存在しているからです。
たとえば、欠乏への恐れ、成功できないことへの恐れ、病気になることへの恐れ、老いることへの恐れなどがあり、さらには恐れること自体への恐れにまで至ることもあるのです。
このような世界のなかで、私達は、親神様が望むような陽気ぐらしで過ごす可能性を現在持合せているのでしょうか。
教祖は次のように仰います。
いまゝでハせかいぢううハ一れつに
めゑ/\しやんをしてわいれども7-89なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので7-90この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを12-91このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら12-92
教祖はここでは、陽気ぐらしへと向かう道のりへの鍵として、思考しすぎることを止めて心の状態にもう少し関心を寄せることを始める時であることを明白に告げています。
これきいてみな一れつわしやんせよ
なにかよろつハ心しだいや4-118なにゝても神のゆう事しかときけ
みなめゑめの心しだいや4-48
このようにして私たちは、まず元の理の中で明かされていることを思い起こしながら、教祖が私たちに残された教えに完全に身を委ねることができるようになります。
「月日親神は、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」とあるように人間の存在理由、その役割は、親神の本来の意図の中で明確に定められています。
人間の存在理由、その唯一の役割は、幸福であること、そしてそうすることで親を喜ばせることです。この役割を果たせるようになるために、親神は私たちに十分な教えを授けてきましたが、その教えを聞いた者はごくわずかであり、ましてやそれを実行に移した者はさらに少ないのです。
いずれにしても、現在の世界の状態や人間の振る舞いかたを見ると、私たちが創造されるに至った本来の役割をまったく果たしていないことは明らかです。
教祖は次のように仰ります。
なにもかもしらずにくらすこの子共
神のめへにハいぢらき事3-94
しかし、教祖は次のようにも勇気を与えてくださいます。
にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるもよふばかりをもてる14-35もふけふわどんな事をばしたとても
なにもあんぢなをやのうけやい14-86いかほどにせつない事がありてもな
をやがふんばるしよちしていよ15-8
それゆえ、私たちは不安の中にとどまっていていけません。今、教祖の教えを聞くことができるという幸運に恵まれているのですから、それを実践し始める時です。それこそが現在もなおこの世界が陥っている無知な状態から私たちを抜け出させるのです。
無知とは、私たちの親の存在について、そしてまた、人類全体が一つの家族であることについてだと言えます。
次のお歌を紹介させてください。
にんけんをはじめたしたるこのをやハ
そんめゑでいるこれがまことや8-37このよふを初た神の事ならば
せかい一れつみなわがこなり4-62いちれつのこともがかハいそれゆへに
いろ/\心つくしきるなり4-63
この事への無知さが取り除かれることで、喜びに満ちた本来の生活が可能となるのです。
たとえば、私たちが一つの家族であると理解すれば、この地球の資源を公平に分かち合うことが自然なこととなります。教祖に伴われ導かれているという確信は、すべての人の心に全体的な安心感を生み出すことになるのです。
そして、最初から理解しておくべき重要なことが一つあります。それは、喜びは思考や知性から生じるものではなく、ただ心からのみ生まれるものだということです。
それがゆえに教祖は次のように仰るのです。
いまゝでと心しいかりいれかへて
よふきつくめの心なるよふ4-53
しかし、この教えを完全に理解し、喜びが私たちの心から湧き上がるためには、満たすべき前提条件があると教祖は説いています。その条件とは、まず何よりも心の浄化に取り組むことです。これは教えの根本的な要点で、私たちが最優先で実践し、できるだけ多くの人に伝えるべきものです。
そのことはこのように書かれています。
すみやかに心すましてきくならば
よろづのはなしみなときゝかす3-21このさきハたん/\つとめせきこんで
よろづたすけのもよふばかりを2-20
この教えは、心は私たち自身に固有のものであり、その本質は純粋で、光に満ち、広大であり、鏡のように神の無条件の愛を自然に映し出すものであると説いています。また、創造の根源には人間が成長し、完成へと至るための意図があるため、心の中にはすでに正しい方向性が備わっていると。だからこそ、私たちの心はすべての人に向けた調和、愛、平和、そして限りない幸福を必然的に求めるのです。
しかし、心の映し出すものは、教えによると「心の埃」と名付けられたものによって曇らされることがあります。これらの「埃」は心の中に生じるのではない。それは思考の中、無知な考えによって生み出されるものなのです。
それは次ように教えられています。
それしらすみな一れつハめへ/\に
ほこりばかりをしやんしている17-69
また教典の58ページには次のようにあります。
親神は、かかる心遣いを、埃にたとえて、戒められている。元来、埃は、吹けば飛ぶほど些細なものである。早めに掃除さえすれば、たやすく綺麗に払えるが、ともすれば積りやすくて、油断をすれば、いつしか、うず高く積りかさなり、遂には、掃いても拭いても、取り除きにくくなるものである。
この教えは、埃が積もったとしても、それによって心という鏡そのものが損なわれることはないと説いている。というのも、心は何ものによっても変えられることのない、本来操作不能な性質を備えているからです。これはとても心強いことであり、いつでも元来の純粋さを取り戻すことができるということを意味しているのです。
しかし、このように埃に覆われた状態では、心は光を十分に反映せず、あたかもすべてが脅威的、かつ敵対的であり、ばらばらに分断された世界であるかのように、歪んだ像を映し出してしまいます。
教えにおいて、これらの「埃」は罰せられるべき過ちとは見なされず、認識し、変えていくべき思考の不調和として捉えられています。
教祖は、私達が咎められることはなく、悪人も存在しないしと言われます。彼女は次の歌でそれを示されます。
一れつにあしきとゆうてないけれど
一寸のほこりがついたゆへなり1-53
この教えは、心の浄化こそが人間の成長の基盤であると説きます。ですが、この浄化は道徳的な行為や知的な論理とはまったく関係がない神聖な行為であり、人間を親神や教祖と直接結びつける心の行為です。
心の浄化とは親神の働きであって、思考から生まれた論理ではないのです。
このことは、次のようなお言葉でも教えて下さっています。
せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ
神がほふけやしかとみでいよ3-52めへ/\にハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや5-4めへ/\の心みのうちどのよふな
事でもしかとみなあらわすで12-171これみたらどんなものでもしんぢつに
むねのそふちがひとりてけるで12-172
このように、私たちは、人生に起こる問題を見つめることで、心を覆っている埃、そして親神によって行われている浄化の働きに気づくことができるようになるのでしょう。そして、病気やさまざまな問題が、心に積もった大量のほこりを一掃しようとしている神の働きを反映していることを理解するにいたるのです。この気づきが、真の感謝と真の喜びを私たちの中に生み出すのです。
こうして「陽気ぐらし」は、日常の中に存在し始めることができます。なぜなら、何が起こっても世界を呪って抵抗するのではなく、自分たちの目的を自覚したうえで、心の浄化に働いている親神の慈しみを感謝とともに受け入れるようになるからです。
次のお歌を見てみましょう。
それからハ神のはたらきなにもかも
ぢうよじざいをしてみせるでな5-48しんぢつの神のはたらきしかけたら
せかい一れつ心すみきる5-49
同時に、確かに教祖は私たちに自分自身について先のことについて思索する必要はないと教えられますが、心につもった埃を払い清める働きについては、私たちも参画するよう求めておられます。
お歌には次のようにあります。
なにゝてもやまいとゆうてさらになし
心ちがいのみちがあるから 3-95このみちハをしいほしいとかハいと
よくとこふまんこれがほこりや3-96ほこりさいすきやかはろた事ならば
あとハめづらしたすけするぞや3-98
このために教祖は、実践の手段として「つとめ」と「ほこりの見極め」を教えておられます。
みなさんご存じのとおり、つとめは教祖によって与えられた素晴らしい手段であり、親神への感謝を捧げると同時に、日々、心を曇らせるほこりを払い清めていくことを可能にするものです。
心を清めるのは思考ではありません。思考ではそれ自体を清めることはできないのです。それを成し遂げるのは、「つとめ」の誠実な実践を通して働く神の意志です。
ですから、「つとめ」の効果を高めるために、思考や集中力を無理に働かせる必要はありません。大切なのは、自らの心の誠実さだけなのです。
教祖は次のように教えて下さいます。
このみちをはやくをしへるこのつとめ
せかい一れつ心すまする7-99
ここでもまた、自分の思考、知性によって心を清めることが可能だと考えるべきではないということが分かります。
教祖は八つの心の埃を教えられましたが、それは私たちがそれを意識し、それぞれを見分け、心の中で有害な要素として捉え、どのような心の働きによってそれが現れるのかを理解できるようにするためです。埃が心の中に生れ、まだ深く沈み込む前の段階で気づき、認識できるようになることが理想的ではあります。
埃は自身の中では感じ取りにくいものですが、思考の混乱を静めれば静めるほど、それは可能になっていきます。私たちは、誰もが自覚しないまま、常に心の埃を生み出しているということをまず理解しておくべきでしょう。
ご存じの通り、八つの心の埃とは、おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、腹立ち、よく、こうまんです。例えば、一日に一つのほこりに注目し、その特徴を心にしっかりと留めておくことで、それが現れたときに注意深く気づけるようにすることもできるでしょう。
それはどのように現れるのでしょうか?たとえば今日は、おしいについて見てみましょう。
まず、それはどのような特徴を持つのでしょうか。
それは「与えることを拒む心」あるいは「足りなくなることへの恐れ」として現れます。それは不安感と結びついているものです。おしいは、自分が持っていると思っているものを失うことへの恐れであり、十分に持てないことへの恐れであり、与えすぎることへの恐れでもあります。これはお金や物質的なものに限りません。時間、注意、承認、愛情を与えることを拒む場合もあります。これらすべてが「おしい」という埃なのです。
こうした思考パターンは、自分の心の中にあるのか、どうか。もしあるとしても、教祖は私たちに罪悪感を抱くのではなく、むしろそこに現れているものを受け入れ、認識することを促しています。というのも、埃に気づくこと自体が、もう払い始めていることになるからです。
ですから、人生のさまざまな状況における自分の心の動きを正直に、そして判断せずに観察し、その中でこの埃のない思考を育てていくことが重要となるのです。そして毎日、別のほこりについても同じことを繰り返してみると良いです。なぜなら、繰返すことこそが、現状状態からの変化を生み出す力となるからです。
全人類という家族の中で生きていることを十分に自覚し、そして全世界の心の浄化が進むことを願いながら、私たちは自分自身の心の掃除を進めていくのです。心が清くなればなるほど、私たちの意識は私たちの中にある親の存在へと開かれていきます。
こうして、未来においてさらに加速するであろう科学の進歩の恩恵を受けながらも、私たちはより内面の世界へと向かい、心で考えることを学んでいくようになるでしょう。
次の『おふでさき』のお言葉も、私たちにとってより深い意味合いを持つものです。
月日にわみな一れつハわが子なり
かハいいゝはいをもていれども16-31このはなしとこの事ともゆハんでな
せかいちううハみなわがこやで15-69せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや13-43このもとをしりたるものハないのでな
それが月日のざねんばかりや13-44
この地球は、そこに暮す全ての人々が、同じ家族の兄弟姉妹であることを私達は理解できるのではないでしょうか。
教祖は加えて次のように仰ります。
高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい13-45
私たちは同じ魂を持つ存在として自分たちは一つであることに気づくようになります。そして一つであるがゆえに、自分自身の傷を癒したいと願うのと同じように、他者の傷も癒されることを願うようになるのです。
結果、この天理教の教えは、現代社会において思考がもたらしてきた有益な進歩を否定することなく、他者を助けようとする心をもった毎日の「つとめ」に立ち返りながら、人生のあらゆる事柄、場面において、心の声を優先すべきであることを明示していると思います。
まさしく教祖が次の歌で語られているように:
せかいぢうたがいにたすけするならば
月日も心みなひきうける13-38
ご静聴ありがとうございました。