Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2026年7月月次祭神殿講話

リヨン布教所長 藤原理人

皆さんもよくご存じのように、私たちの信仰の第一の目的は、喜びに満ちた陽気ぐらしを実現することです。健康でありたい、病気は早く治ってほしい、苦しみから解放されたい、癒やされたい、たすかりたいと願うのは、私たち人間がそのように作られているからです。それが人間の本質です。

時に、他者のために自らの命を犠牲にすることもためらわない、並外れて利他的な人もいますが、一般的には、私たちは皆、自分自身の喜びに満ちた人生を求めるものなのです。言い換えれば、人はある意味、誰でも利己的なのです。

親神は、喜びあふれる陽気ぐらしを送れるように人間をおつくりになられたわけですから、自分自身の平穏な人生を求めることは、決して恥ずべきことではありません。なぜなら、私たちは遺伝子のレベルにまでそのように刻み込まれ、無意識のうちにそう考えるようになっているからです。利己的な性質は、私たちから決して離れることのないものなのです。

四ッ よくのないものなけれども
かみのまへにハよくはない

とみかぐらうたにあるように、みんな欲のある人間なのです。

この教えを自覚することが大切です。この利己的な自分を理解したうえで、人助けという教えが活きてきます。おふでさき第三号47のお歌に、

わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる

と教えられるゆえんです。

本来、自分自身のことばかり考えがちな私たち人間が、自分たちの望むたすけを得るためには、他人のことを考えなければならないと教えられています。私たちは利他主義と利己主義を対立するものとして考えがちです。しかし、天理教の教えでは、この二つは本当に相反するものではなく、互いに補い合うことができるものなのです。

さて、天理教の教えは、直線的な論理に基づくものではありません。つまり、善は単純に悪の反対ではなく、聖なるものは俗なるものの対義語ではなく、清らかさは穢れと両立しないものではありません。利他と利己もどこかで結びつきます。仏教でも生死一如というそうですが、生と死すらも一つのものとして捉えられます。

私たちの体を見れば、よく分かります。神聖なものである親神の十全の守護は、ごく普通の人間の身体の中で働いています。このように、一つの体は、尊い神の働きを宿す存在であると同時に、人間らしい肉体としての性質も備えています。だからこそ、同じ体で善い行いをすることも、悪い行いをすることもできるのです。善も悪も共存しているのです。

このように、天理教の教えにおいては、物事は決して直線的に捉えられるものではありません。すべては相互に関係し合い、互いに依存し、深く結びついています。絶対的なものはなく、すべては相対的なものです。もし善と悪は反対のものであると考えるなら、おそらく天理教の教えの本質を理解することはできないでしょう。

『教祖伝逸話篇』147の「本当のたすかり」を読むと、悪いことが必ずしも善いことの反対にあるわけではないことが分かります。

この逸話では、足の病を患っていた人がおやさまのおかげで治るのですが、手にはわずかな震えが残りました。おやさまは、完全に治るよりも、そのわずかな不自由が残っているほうが、前世からの因縁を深く悟ることができるとお諭しになりました。誰もがすっきり病気が治ってくれたらと願います。しかし、本当に大切なのは、物質的なことにとどまらない、本当のたすかりを得ることなのです。

この天理教の考え方に立てば、利己的でありながら利他的であることは、ごく自然なことなのです。私たちは、「人を助けるのに、自己中なんてもってのほか」という理想を抱くかもしれません。しかし天理教では、自分がたすかりたいなら、自分のことだけ考えてはいけないと教えられています。自分が願うたすかりは、他者を思うことで実現するのです。他の人を助けることによってしか、自分は助かっていかないのです。

もちろん、究極の理想は、自分がたすかりたいという意識がなくなり、ただひたすら他者のことだけを思うようになり、その結果として知らず知らずのうちに自分もたすかっている、という境地に至ることでしょう。ですから、実のところ「自分がたすかりたい」と「人をたすけたい」は本来同じなのです。この二つは対立するものではなく、一つに結びつくべきものなのです。

つまり、天理教では、「たすける」は「たすかる」という意味になります。おかきさげに「救ける理が救かるという」と教えられるとおりです。

自分がたすかるために、つまり他の人をたすけるために、おやさまは私たちに二つの方法をお教えくださいました。それが、つとめとさづけです。

もちろん、人を助ける方法はほかにもたくさんあります。経済的な援助、さまざまな支援活動、心理的なサポートなどです。しかし、それらはいずれも物質的で世俗的な次元でのたすけと考えられます。

天理教において、純粋に精神的な救けの方法とされるのは、つとめとさづけだけなのです。

今日は、つとめについては話しません。一言だけ、つとめは、たとえて言えばシャワーのようなもので、長い間浴びなければ体が汚れてしまうように、つとめをつとめることで心の掃除ができます。みなさん、シャワーを浴びるがごとく、おつとめをしましょう!

今日は、さづけに焦点を当ててお話ししたいと思います。

先ほども申し上げたように、おさづけは純粋に精神的なたすけの方法です。しかし、その実践はとても具体的で、身体的な行為でもあります。病んでいる箇所に手を当て、その人の回復を願います。けれども、病気が治ることは、一見すると非常に物質的な出来事です。痛みがなくなることも、苦しみが和らぐことも、目に見える結果だからです。

だからこそ、私たちはおさづけの本当の意味を取り違えてしまう危険があるのです。

私はこれまでに、「おさづけでは病気が治らないのだから、やっても意味がない」という言葉を何度も耳にしてきました。しかし、そのような考え方は、まったくもって正しくありません。確かに、おさづけは病気の治癒を願って取り次ぎます。それは事実です。しかし、おさづけを取り次いだ後、実際に病気が治るかどうかは問題ではありません。病気が治ったら成功で、治らなかったら失敗ですか。違うでしょう。おさづけには、成功も失敗もないのです。

もちろん、おさづけのあと、さまざまな結果があります。その働きは一つではありません。病気が治ることも、おさづけの結果の一つであり、おそらく最も目を引く結果でしょう。「足を引きずっていた人が、普通に歩けるようになった」「目の見えにくかった人が、すぐによく見えるようになった」といった話を耳にすることがあります。そうした話は、誰もが夢見るような出来事です。おさづけを取り次ぐなら、私たちもそのような結果を期待してしまいます。しかし実際には、そのような例はごくまれです。

ほとんどの場合、目に見えて病気が治ることは少ないです。仮に十人のうち一人でもおさづけによって病気が治ったら、本当に素晴らしいことです。しかし、おやさまは私たちに、そのような基準でおさづけを評価させたいのでしょうか。おさづけには、病気を治すだけではない、もっと深い意味があるのです。だからこそ、目に見える即座の結果だけに目を奪われてはならないのです。

おさづけを取り次ぐときには、具体的に肌や感覚で感じるものがあります。手のぬくもり、やさしくなでる動作、心を通わせる感覚、そこに一緒にいるという安心感、そして相手を思いやる心。それらはすべてポジティブな働きをもっています。こうした行いや姿勢は、意識するしないにかかわらず、病んで弱った体に力を与えます。その力は、体がもともと持っている、決して完全には失われることのない地力(じりき)というか、本来の生命力を呼び覚ます助けとなります。おさづけで最も大切なのは、さづけの具体的で物質的な感覚が、それを受ける体にとても前向きな影響を与えていると信じることです。

みなさんの体も、魂や心がそう願うのと同じで、たすかることを望んでいます。体は、魂や心から独立した存在であり、なおかつ、その魂と心に依存している存在でもあります。そして魂や心と同じように、体もまた陽気ぐらしを願っています。その意味では、体もまた「利己的」なのです。

一方で、体は魂や心と違って、十全の守護という働きを通して、休むことなく借主を支え続けています。その絶え間ない人だすけの働きに報いる意味でも、体もたすかりに値する存在なのです。

それにもかかわらず、「身体がつらい」「いつもどこかが痛い」と、私たちは体の不都合なところにばかり目を向けて、不足してしまいがちです。体を喜ばせるどころか、文句ばかり言って、体を悲しませてしまっているのです。

しかし、信頼する人の手が肌に触れることや、その人が自分を思ってくれているという具体的な感覚や気持ちだけでも、体にとっては大きな喜びになります。おさづけを受ける際は、その喜びに水を差すようなネガティブな心遣いをしてはいけません。

現実の物事には常にネガティブな面とポジティブな面の両方があります。おさづけも同じです。病気が治らない、痛みが消えないのはポジティブにとらえにくいでしょう。しかし、たとえ病気が治らなくても、痛みが消えなくても、その中には必ず何らかのポジティブな働きがあります。もし、おさづけを目に見える結果だけで判断してしまうなら、本来は精神的な目的を持つさづけの働きを、自ら見失ってしまうことになるのです。

ここで、先ほどお話ししたことに戻りたいと思います。天理教の教えは、直線的な論理では捉えられません。体の痛みと心の安らぎは、単純に相反するものではないのです。痛みの中にあっても、自分を思ってくれる人の温かい心に触れることで、喜びを感じることができます。また、痛みがあるからこそ、神様の大きなお働きに気づき安心感を得られることもあります。

おさづけは、まさにそのことを実践し、味わうための大切な機会です。たとえ、おさづけの後に痛みがまだ残っていたとしても、さづけによって、身体が本来の生命力、地力を取り戻し、そして単に自然治癒力だけではない、生きる力そのものも呼び起こしているのだと、強く信じることが大切なのです。

つとめは一人でもできますが、おさづけは二人で行わなければなりません。まだおさづけの理をいただいていない方でも、誰かにおさづけを取り次いでもらうことはできます。

おさづけを通して投げかけあった心を、お互いが感じ取る力をつけることが大切です。おさづけを取り次ぐ人も、相手を思うその心によって、自らもまたたすかります。おさづけの実践は、「互いに助け合う」という姿をそのまま表しています。おさづけを取り次ぐ人は、一方的に取り次ぐだけだ、と思ってはいけません。取り次ぐ人も受ける人も、その「たすけ」と「たすかり」の二つ一つの働きによって、二人ともが必ずご守護をいただけるのです。

おさづけを、ただ痛みを和らげる手段ととらえるのではなく、お互いのたすかりに近づけてくれる行いであると自覚して、その魂に触れる効能を現実に体で感じられる感覚を研ぎ澄ます努力が大切だと思います。

ご清聴ありがとうございました。

アーカイブ