Tenrikyo Europe Centre
Loading ...
明和パリ布教の家担当 小林弘典
本日は「癖」と「性分」について考えさせていただきたいと思います。
私たちは普段周囲の方々の癖と性分と向き合って生活しています。ということは、周囲の方々も私たち自身の癖と性分と向き合って暮らしていることになります。よって個々の癖、性分は周囲に大きな影響を与えることになります。
話を始める前に、「癖」と「性分」という言葉について確認させていただきたいと思います。
一般的に「癖」はフランス語では、「habitude」「manie」「tic」「défaut」などと訳されます。また、「性分」は、「caractère」「nature」「tempérament」「disposition」などと訳されるようです。いずれも文脈により訳が異なりますが、本日のフランス語訳は、「癖」は「habitude」、「性分」は「caractère」という語を用いて話を進めたいと思います。ただし、その中には今紹介した、その他語彙の意味も含まれていることをご了解ください。
私たちの日常のほとんどの言動は、癖や性分によって形づくられています。朝起きてから夜眠るまで、私たちはある意味、これらの癖や性分に支配されていると言えるでしょう。こうした癖や性分は、私たちの身体や健康にも影響を及ぼします。また、天理教の教えにある「八つのほこり」や「いんねん」とも深く関わっていますが、本日はそこまで話を広げず、癖と性分を中心にお話ししたいと思います。
さて、おやさまの逸話の中に次のようなものがあります。
ある日、おやさまは、入信後間もない信者に、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」と、諭されました。
私は初めてこの逸話を読んだとき、前半の「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。」という部分はすんなり理解できました。これは、天理教の教えに限らず、よく耳にする言葉です。しかし、後半の「癖、性分を取りなされや。」という部分については、受け入れるのに少し時間がかかりました。といいますのも、私たちそれぞれが、他の誰でもない「私」であるということは、この癖や性分があるからだと考えていたからです。
もし、個々の癖や性分がなくなってしまえば、それぞれの個性がなくなり、みんな同じになってしまうのではないでしょうか。そのようになったら、実につまらない世界になってしまうと思われたのです。
その後、何度かこの逸話を読み返していると、大切なのは、おやさまの言われた「癖、性分を取りなされや」の直前の文章だと気づきました。そこには、「その方はたいそう気の短い方であった」と書かれています。そこから、おやさまがこの方に「取りなされや」と言われた癖、性分は、この「気の短さ」であったことがわかります。
では、なぜおやさまはこの方に「癖、性分を取りなされや。」と言われたのでしょうか。
人に対して、癖、性分を取れとか、直せとかと言うとどうなるでしょう。これは、相手の人格を否定するような大変厳しい言葉になってしまいます。しかし、おやさまがあえてこの入信間もない信者に「癖、性分を取りなされや。」と言われたのには、それなりの理由があったのではないでしょうか。おやさまが、この信者に期待を寄せていたからかもしれません。
「癖、性分を取れ」と言われても、そう簡単にはいきません。私も、自分のよくない癖、性分はいくつか自覚しているつもりではいます。また、日々、この癖、性分が取れないものかと努力しているつもりです。しかし、そう思いながら、いつもつい同じことを繰り返してしまいます。さらに、自覚している自分の癖、性分はわずかで、ほとんどの癖、性分は自覚すらできていないようにも思えます。癖、性分とはそういうものではないでしょうか。
さて、このおやさまの逸話はさらに続きます。
その方は大阪の左官職人だったそうです。今は、天理から大阪まで車でも電車でも1時間もあれば行けるでしょう。しかし、当時は車も電車もありませんでしたから、お屋敷にいる方々にとって、大阪はかなり遠いところのように感じられていたことでしょう。しかも、大阪は、今でもそうですが、西日本では最大の都市でもありました。また、当時は今と違い、この教えに対する政府や警察の干渉が大変厳しい時代でした。
そんな中、入信間もないこの信者は、おやさまのご休息所の壁塗りの「ひのきしん」をさせていただいていたのです。おやさまにたすけていただいた喜びから、また教えに感銘を受けた喜びから、そのご恩に報いようと、熱心にひのきしんをしていたことでしょう。
ところが、ある日、だれが言ったかはわかりませんが、こんな陰口を聞いたのです。「大阪の左官が、向こうで仕事がなくなったので、こんなところまで来ているんだ。」
これを聞いて、激しく腹を立てたこの信者は、荷物をまとめて、夜中にこっそり大阪へ帰ろうとしたのです。そして、皆が寝静まるのを待ってお屋敷の門を出ようとした正にそのときです。なんと、ちょうど門の横のお部屋でお休みのはずのおやさまが咳払いをしたのが聞こえたのです。その瞬間、「あ、おやさまが・・・」と思い、その場で足が止まったと書かれています。
結局、この方はお屋敷にとどまり、その後も熱心にお道の信仰を続けられました。後に、多く信者を導き、天理教の発展に大きく貢献されたそうです。
もちろん、癖や性分は悪いものとは限りません。周囲を勇ませ、明るくする、癖や性分もあるでしょう。学問や技術を習得するのに適した癖、性分もあるでしょう。芸術やスポーツに適した癖、性分もあるでしょう。
他人の癖、性分について語るとき、見落としがちな点があります。他人の癖、性分は、自分の癖、性分を通して見たものであることです。家族や、職場の同僚を思い浮かべてください。生活や様々な活動をともにすると、相手の癖、性分はだいたい把握できているように思います。そして、その相手の癖、性分を踏まえた上で付き合うようになります。しかし、相手も同様にあなたの癖、性分を踏まえた上で対応しているのです。まるで合わせ鏡のようにお互いがお互いの癖、性分を見合っているのです。
よって、相手の癖、性分は自分の癖、性分が反映されたものとも言うことができます。さらに、この関係は一対一ではありません。複数の関係が複雑に絡み、反映し合っています。したがって、他人の癖、性分を正確に把握することは、ほぼ不可能であると言えます。
また、同じ状況の中に身を置いても、喜ぶ方もいれば、何も感じないという方もいます。腹を立てる方もいれば、平然としている方もいます。これも一種の癖、性分と言えるのではないでしょうか。
私は毎日RERのB線を利用し、通勤しています。近年の郊外の開発によりB線の利用者も増えてきました。平日の朝夕はかなりの人で混み合います。そのような混み合っているときに、ときどきこういった方を見かけます。駅で乗客が乗り降りをする際、降りる方がまだ降り切っていないのに強引に乗ってこようとする方。入り口付近が混み合いぎゅうぎゅう詰めになっているとき、通路にはたくさん空間があるにもかかわらず、全く通路の方に移動しようとしない方。そんな方々の様子を見ていると、だんだん腹が立ってきます。
そんな光景を見ていて、ある時ふと考えました。当の本人や周囲の方々は私と同じように腹を立てているのかなと。そう思い、周囲を見回してみると、何だか腹を立てているのは私一人のように感じられたのです。これは、私自身の「こういうときはこうしなければならない」という癖と性分がもとで腹を立て、自分が損をしているのだと思えてきたのです。
さて、先ほどの、おやさまの逸話に戻ります。
腹を立ててお屋敷から出て行こうとしたところ、おやさまの咳払いを聞き、その足が止まったというところまでご紹介しました。しかし、この逸話には、続きがあります。
翌朝、お屋敷にいる人々がいっしょに朝食を取られていたときです。その場には、おやさまも、そしてその信者もいらっしゃいました。そして、おやさまはその方にこう言われたのです。「人がめどか、神がめどか。神がめどやで」
このお言葉の私の解釈は次の通りです。
人のすることを見て、腹を立てても自分が損をするだけです。人の言うことを聞いて、腹を立てても自分が損をするだけです。腹立ちは他人からではなく、自分自身の癖、性分から出てくるものです。腹が立ったときは、なぜ神は自分にそのような言葉を聞かせるのか、なぜ神は自分にそのような光景を見せられるのか、親神の教えを胸に収め、そこをよく思案しなければならなりません。信仰は自分と神との対話です。自分の癖、性分の赴くままに考え、行動するものではありません。他人の癖、性分によって右往左往するものでもありません。立ち止まって、神様の思し召しは何なのかということを思案することが求められます。
この逸話は、おやさまの「人がめどか、神がめどか」「神がめどやで」というお言葉で終わっています。
ところで、今、ご紹介した逸話の信者の癖、性分はその後取れたのでしょうか。
私は、おそらく癖、性分そのものは取れなかったのではないかと思っています。しかし、「神をめど」にして癖、性分の方向性が変わったのではないでしょうか。
気が短いという癖、性分は、一般的に否定的に受け取られます。しかし、「神をめど」に心の向きを変えることで、肯定的に働く可能性も秘めています。気が短いという癖、性分は、決断や行動が速いという側面も秘めています。癖、性分は使い方次第で、自分ばかりではなく、周囲に及ぼす影響は大きく異なってくると思います。
この信者の方は、お道の教えに大変精通し、論理立てて話すのが上手だったと言われています。きっと、おやさまは、この方のそういった癖、性分も見抜かれて、引き寄せられたのだと思います。
今日、ここにいる私たち一人一人も、おやさまにそれぞれの癖、性分を見込まれて、引き寄せられているのかもしれません。もし、そうだとすれば、それはどんな癖、性分なのでしょうか。
本日は癖と性分について、お話をさせていただきました。皆さんの信仰の上に、また日々の生活の上に何かご参考になることがあれば幸いに思います。
ご清聴、ありがとうございました。