Tenrikyo Europe Centre

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2026年4月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 岩切耕一

本年1月ご本部にて教祖140年祭が盛大につとめられました。私も参拝させていただくことを楽しみにしていたのですが、残念ながらそれができませんでした。というのは、今年1月2日に受けた身体検査の結果、膀胱に腫瘍が見つかったからです。先月19日に手術を済ませることができ現在少しずつ回復させていただいているところです。今回、生まれて初めて命に関わるかもしれない病気を経験しましたので、教祖は病気についてどう教えられているか、また親神の守護とは何だろうかという点について、改めて考え直してみました。今日はそのお話しをさせていただきたいと思います。

教祖は病気に関して、おふでさきに40首、みかぐらうたに6首の歌を残されています。この合計46首のお歌には教祖のお考えがはっきりと示されていますが、次の5つの点に要約されるのではないかと思います。

  1. 親神が造られた世界には病気は存在しない。人間は体を壊したら病気だと考えるが、それは病気ではなく親神からのお知らせである。
  2. 親神からのお知らせは、人間の心得違いを人間に教えるためにある。
  3. 心得違いを正すためには「かぐらづとめ」を勤めると良い。人間が互いに病気を治せるように「さづけの理」を渡しておく。
  4. 親神による人間創造の話を理解したら人間が病気になることはない。
  5. 親神は人間に、病気をせず、若死にをせず、老いることがないという珍しいたすけを与えたいと願っている。

教祖は「さづけ」によってどんな病気でも治すことができると教えられています。私は病気が見つかってから、毎日出張所の朝づとめ後に、所長ご夫妻と出張所の職員の皆さんに交代で「さづけ」を取り次いでいただきました。今回の経験で分かったことは、体に取り次いでいただく「さづけ」は、心にも効くということでした。おかげさまで、食欲もなくならず、夜は心やすらかに寝られました。心からお礼申し上げています。その一方で、医師の指示を受け医学的な治療を受けました。教祖は医者や薬は「修理肥」だと教えられています。現代の私たちは病気になったら「さづけ」を受け、同時に高いレベルの医学的な治療を受けることができます。私たちは今大変ありがたい時代に生きているのではないかと思います。

さて病気に対する教祖の教えは、世界のどの宗教にもない独特なものではないかと思います。例えば、仏教では病気は人間にとって避けられない苦しみの一つだと教えています。一般的にも、病気は暗くネガティブなものだという印象が強いと思いますが、教祖はそのような悪いイメージを完全に払拭しておられます。

特に注目されるのは、先ほど述べました4番目の「親神による人間創造の話を理解したら人間が病気になることはない」という点ではないかと思います。なぜこう言えるのでしょうか。どういう理由があるのでしょうか。人間創造の話は、親神が「いつ、どこで、誰と、なぜ、どのように」人間をお造りになったかという話です。このことについて少し考えてみました。

まず「なぜ」という視点から考えてみました。親神がなぜ人間を創造したのか、それはご承知の通り「人間が助け合って楽しく過ごす姿を見たい」という目的があったからであり、「人間が病気になって苦しむ姿を見たい」からではありません。従って人間の体は「助け合って楽しく過ごす」ように造られているはずであり、そこから逸脱すると、当然、体自体がうまく機能しなくなると考えられます。この体の機能不全のことを人間は病気だと言っていますが、病気の原因は人間の心得違いにあることがわかります。病気は親神が与える罰だと考える人もいますが、それが間違いだということは明らかです。

次に「どのように人間をお造りになったか」という視点から考えてみました。人間創造の時、親神は最初に夫婦のモデルを作り、続いて人間の体が成長するために必要な4つの道具を作りました。その後、親神はその4つの道具を携えて夫婦のモデルに入り込んで人間を産み下ろしました。産み下ろされた人間はこの4つの道具を使って長い年限をかけて体を成長させました。人間創造の話には書かれてはいませんが、体が成長すると同時に脳が発達し、脳が発達した結果、人間に精神的な世界が現れてきたものと考えることができます。人間創造のお話によると、親神はこのような人間に対して今から約1万年前に「知恵の仕込み」を行いました。人間はこの時初めて自分たちを人間だと自覚し、自分たちに心があることを知ったのではないでしょうか。

私は、人間に病気が現れたのは、この「知恵の仕込み」以降ではないかと考えています。なぜかといいますと「知恵の仕込み」をいただいた後、人間は自分中心的な欲の心を使い始めたからです。つまり人間は親神の創造目的から少しずつ逸脱し始め、今日までの1万年もの長い間に心得違いを重ねてきた結果、体の機能不全が病気という目にみえる形で現れてきたのではないかと考えています。

そうしますと人間が病気にならないためには、自分中心的な欲の心を互いに助け合う心に入れ替えて親神の創造目的に沿った生き方をすれば良いということになります。このようなことが理解できるのは、教祖が人間創造のお話を残してくださったからにほかなりません。言い換えれば「親神による人間創造の話を理解したら人間が病気になることはない」という教祖のご指摘はなるほどのことと思われます。

話は変わりますが、入院中のことを少しお話しさせていただきたいと思います。手術後のことですが、ベッドに横になりながら点滴を受けていたのですが、ふと疑問に思って看護婦さんに「この点滴の液体にはどんな薬が入っているのですか」と質問をしました。答えは「薬は入っていません。ただの水です」というものでした。これを聞いて私は驚いてしまいましたが、すぐに、みかぐら歌の「水と神とは同じこと、心のよごれを洗い切る」というお歌を思い出しました。親神が水を使って体を洗い、私の心のよごれを洗い流してくださっていると気がついた時は本当に感動しました。

それから翌日の朝、退院することになった時のことです。私は看護婦さんに「もう少し点滴を続けてもらえませんか」とお願いしたのですが、答えは「いいえ、これ以上点滴の水で洗うのは良くありません。たくさん水を口から飲んで洗い流す方が良いのです」というものでした。この返事は私の期待に反するものだったのですが、この時もハッとあることに気がつきました。水は当然口から飲むものであり、人間の体はそう造られているという当たり前のことが大変大切な意味を持っているのだということに気がついたのです。

教祖は、火・水・風こそが親神の真実の守護であると教えています。人間の体はこの火・水・風のバランスを保ちながら生きています。病気であるとか健康であるとかに関係なく、水を口から飲むという当たり前のことは、人間が親神の大きな守護の中に生きている証拠の一つなのだということを強く実感しました。この親神の真実の守護に関して、教祖は人間が価(あたい)を出せばそれを買うことができると言われました。人間が出す価(あたい)とは何でしょうか。それは互いに助け合って生きようとする誠実な心遣いのことだと教祖は教えられています。「誠一つが天の理。天の理なれば直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理」と教えられているように、誠の心さえあれば私たちは必ず親神の守護をいただけます。これほどありがたいことはないと思います。

さて、人間にとって病気の苦しみの一つは死に対する不安ではないかと思います。中でも特に辛い事は余命宣告をされる場合ではないでしょうか。そこには人間の命とは何かという問いが突きつけられているように思います。このことも今回の病気に直面して考えたことです。そのことを少しお話したいと思います。

地球上には現在約82億人の人間が生きています。人間を人類として見ると、人類の命は集合体として一つです。一方個人の命を見ると1つ、2つ、3つと数えられます。この二種類の命はどのように繋がっているのでしょうか。命を海に例えて考えてみたいと思います。海を人類の命と見ると、個人の命は、コップに汲んだ海水1個、2個とみなすことができます。このように考えると、個人の命の誕生は海からコップで水を汲むことであり、個人の命の死はコップの水を元の海に返すことと同じではないかと思います。

教祖はこの世は親神の体であると教えられました。また天理教教典には、万物に命を授けたのは親神であると書かれています。すなわち親神のお働きが命の源(みなもと)であるということになります。教祖は、人間は親神から命をお借りして生まれ変わりを繰り返す存在であると教えられています。人間の生まれ変わりに関しては、初代真柱様の奥様の中山たまえ様の事例がおふでさきに歌われています。お歌は全部で8首ありますが、たまえ様が亡くなった後から誕生までを予言されていますので疑う余地はありません。

私は昨年の神殿講話で「人間はたとえ体が病気であっても、命が生き生きしていたら心は勇んでくるし、心が勇めば陽気ぐらしができます」とお話しましたが、今回自分の体に病気を見せていただいてこれに間違いはないと確信しました。そのためには、命の元である親神の思召しを忘れず、親神にしっかりもたれる心を定めて、互いに助け合って日々を過ごすことが大切だと思います。

おふでさきに次のようなお歌があります。

なにもかも月日ゆう事しかときけ
心にさだめつけた事なら12-18

それよりもみのうちなやみさらになし
だんだん心いさむばかりや12-19

ご清聴ありがとうございました。

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