Tenrikyo Europe Centre
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ヨーロッパ出張所役員 岩切耕一
皆さんは「人はなぜ死ぬのだろうか」と考えたことがありますか。死は人間のライフステージを締めくくる重要なイベントです。仏教では、なぜ生まれたのか、なぜ老いるのか、なぜ病気になるのか、なぜ死ぬのかという4つの問いは考えても答えが出ないので、人間にとっての根本的な苦しみであると言っています。
一般的に生物の死と言えば「体の死」を意味しますが、地球上の生物は全て死ぬように作られています。例外はありません。それは一体どういう理由からでしょうか。生物学では、それは生物自らが選んだ道だと説明しています。生物は、ある時、命を次世代につなぐための方法を、それまでの無性生殖からオスとメスで子を産む有性生殖に切り替えました。オスとメスで子を産むことにより、異なった2つの遺伝子を組み合わせて遺伝的に多様な子を残せるようになり、生存のための優位性を手に入れることができたのです。有性生殖が始まったのは今から10億年ぐらいまえの話だと言われていますが、興味深いことに、親神様が人間を造られた時期と同じなのです。おつとめの第2節に「この世の地と天とをかたどりて、夫婦をこしらえきたるでな、これはこの世の初めだし」と教えられているように、有性生殖の出現は人間にとっても非常に大切な出来事だったと思われます。
生物の体の死は、この有性生殖の出現と深い関わりがあるとされています。その理由を簡単に説明したいと思います。生物の体は生殖細胞と体細胞の2種類の細胞からできています。生殖細胞はメスの卵子とオスの精子のことで、体細胞は体を作っている細胞のことです。子どもが生まれるのはこの生殖細胞からだけであり、体細胞からは絶対に生まれてはいけないようになっています。なぜなら、もし体細胞から子が生まれたら、親の遺伝情報が子に正しく伝わらなかったり、異常が発生したりして混乱が起きて、生物は滅亡してしまう危険にさらされます。それを避けるために、生物は体が必ず死ぬというプログラムを遺伝子に組み込んだものと考えられています。要約すると、生物は、夫婦で子どもを産むことによって多様性に富んだ子孫を残し、命を安全に次世代につなぐことができるようになったのですが、その代償として体の死を受け入れざるを得なかったわけです。
さて、それでは人間の場合について考えてみたいと思います。人間の死も同様に「体の死」を意味していますが、天理教教祖がお話になった人間創造のお話を読むと、単にそれだけのことではないことがわかります。親神様は泥海の中にいた「うお」「み」「しゃち」「かめ」その他合計9つの道具を使い、その道具に入り込んで人間を作ったと書かれています。ところが人間は誕生した後、続けて3回生まれ変わりをして、その後も8千8度の生まれ変わりを繰り返しています。人間の場合は誕生と死がセットになって語られているのです。教祖は、このことを「出直し」と教えられました。つまり人間の死は、単なる体の死で終わりではなく、出直しであり、新しいライフステージのスタートでもあることを意味しています。
それでは人間が出直しを繰り返し行うことの意味は何でしょうか。人間創造の話を読むと、それは人間が前生、今世、来世と人生を繋ぎ、絶え間なく「成人」を続けていくためであることがわかります。「成人」には2つの意味があると思います。ひとつは「体の成長」、もう一つは「心の成長」です。人間の「体の死」の意味は生物と同じですが、それに加えて「体の成長」と「心の成長」を続けていくための出直しであるという点が大切であると思います。
人間の場合、体と心の成長は同時に進むと考えられます。というのは、おふでさきにそう書かれているのです。
このよふのにんけんハみな神のこや
神のゆう事しかとききわけ3-97ほこりさいすきやかはろた事ならば
あとハめづらしたすけするぞや3-98しんぢつの心しだいのこのたすけ
やますしなずによハりなきよふ3-99このたすけ百十五才ぢよみよと
さだめつけたい神の一ぢよ3-100
親神様が望まれる人間の体は115才まで生きます。病気をしませんし歳をとりません。だだしそれは人間が心のほこりを払い、心が真実で澄み切った時に実現すると教えられています。
では次に人間の命について考えてみたいと思います。人間の命はどこからきたのでしょうか。人間創造のお話には、人間の命がどこからきたかは書かれていません。しかし考えてみたらわかります。先ほど言いました9つの道具は生き物ですので、当然、人間はこの9つの道具から命を引き継いだのだと考えられます。
それでは、命そのものの起源はいつのことでしょうか。人間が作られたのは10億年ぐらい前だそうですが、命はそのずっと以前から地球に存在していました。地球上の命は35億年ぐらい前に出現したそうですが、命が出現したのはその時1回だけです。その後、命は現在まで一度も途切れることなく続いてきました。命は目に見えませんし手で掴むこともできませんが、存在していることは確かです。命は命からしか生まれませんし、命あるものを殺して食べますが、減少するどころか、着実に自らの勢力を拡大し進化し続けています。
最近、人工知能のことが話題になっています。人間は、人間の脳の構造に似たネットワークシステムを作り、高い計算能力を持ったコンピューターを使って、莫大なデータを瞬時に処理できる機械を作ることができました。人間の脳は10億年という長い年限をかけて造られたものですが、人間は数十年で似たような人工知能を生み出したのです。驚くべき科学技術の進歩です。しかしながら、その科学技術を持ってしても、人間は最も単純な体の構造を持つ大腸菌のような命ひとつ作ることができません。そもそも、なぜ命が地球上に出現したのかもわからないのです。
この問に答えられるのは、命を作った親神様以外にはいないと思います。天理教教典には、万物に命を授けたのは親神様であると書かれています。また教祖は、人間を含むすべての生物は親神様の10の働きによって生かされていると教えられました。1885年(明治18年)に山田伊八郎が残した教祖のお話ですが、教祖は
神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし(逸話編164)
と言われたのだそうです。
もしかしたら、命は、親神様の分霊かもしれません。親神様の分霊を与えられた生物は、それを大切に守っていく使命があり、それが生物の生存本能に表れているのではないかと思います。さらに、生物はその親神様の分霊である命を間違いなく次世代に繋いでいく使命も担っているものと思われます。そのため、生物は体の死という方法を選びましたが、人間の場合には体の死を伴った出直しという方法が与えられたのではないかと思います。
人間はたとえ体が病気であっても、命が生き生きしていたら心は勇んできます。心が勇めば陽気ぐらしができます。みかぐら歌に「不自由なきよにしてやろう、神の心にもたれつけ」と教えられています。命を活性化する方法は人によって異なるかもしれませんが、命の元である親神様にしっかりもたれていたらそれほど難しいことではないように思います。教祖140年祭も間近です。真実の心で親神様にもたれて、互いに助け合って陽気ぐらしに向かって少しでも成人させていただきましょう。
ご清聴ありがとうございました。