Tenrikyo Europe Centre
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リヨン布教所長 藤原理人
4月はおやさまのお誕生月です。おやさまは1798年4月18日にお生まれになりました。この日付をフランスの歴史に置き換えると、フランス革命の直後にあたります。おやさまは当時にしても例外的に模範的な女性でしたが、社会、封建制度、宗教など常識を超えるような人ではありませんでした。
おやさまの最初の40年間は、ひながたの50年間とは正反対で、人間的に非常に素晴らしいものでしたが、決して超自然的ではなく、ましてや神々しいものでもありませんでした。おやさまは仏教の教えを受けた、当時の社会の正しい道を生きる、でも普通の人でした。しかし、その人間として尊敬される側面が、のちに「月日のやしろ」となるために必要不可欠なものだったと思います。
おやさまが40歳で、その当時では考えられない教えを説き始めた1838年、まだ日本は、江戸の武家政治の下で比較的平和な生活を送りつつも、徐々に変化を示しつつあった時期にあたります。度重なる緊縮政策と飢饉が日本国民の士気を低下させ、一揆の数も増加していましたが、武家社会の封建制度の終焉、宗教や道徳観の変容、そして産業革命といった大きな社会の変化を経験していませんでした。
フランスでは、七月王政の時代にあたります。フランス革命の後、王政が衰える一方、宗教的権威も弱まって、脱宗教に歯止めがかからなくなっていました。19世紀以前のアンシャンレジーム下で宗教家がほぼ独占していた教育は、フランスの共和政のもと、よき信者を育てるためではなく、善良な市民を育成するために組織化されました。さらに、19世紀の産業革命により、人々は科学技術の進歩に目覚め、精神的な信念は二の次になりつつありました。
おやさまが誕生した年と天理教の立教の年は、ともにフランス革命に匹敵するような劇的な変化である明治維新の前になります。つまり、フランスのアンシャンレジーム下で、幼少期にカトリック教育を受けた女性が「われは元の神、実の神である」や「世界一れつをたすけるために天下りた」と宣言したと考えれば、その影響の大きさを想像しやすいかもしれません。
おやさまの教えは、当時としては前例のないものでした。それは元始まりの話や、十全の守護、おつとめなどの教えです。これらは、日本人が思想的な変化と世界的な近代化を知る前に明らかにされたものです。さらに注目すべきなのは、これらの教えが明治維新で社会を覆されても揺らぐことはなく、また今現在にいたるまで、さまざまな変化に対応しているということです。
この教祖の教えの普遍性について、当時は必要なかったが、これからの時代に役立つであろうものについて話したいと思います。これから述べる私の考えは、天理教内でも賛同が得られないかもしれませんが、それでもお話ししたいと思います。
それは、ステップファミリーに関する問題です。天理教は同性婚を祝うことができるか、についていろいろなところで議論がありました。この問題は未だに結論が出ておらず、現在も続く問題だと思います。しかし、時代は急速に進化しています。今、私たちは同性の親を持つステップファミリーの問題に直面しています。
現在、「私の家族は三人です。二人の母親と私です」と言う子どもが増えてきています。同性愛者の親が子供を持つ方法は、前の結婚で生まれた子供、養子、医療技術による精子提供や代理母出産などが考えられます。
これまでも、異性の夫婦であれば、継子や養子はたくさんありました。医療を使う方法については、各国がそれぞれの法律で規制をかけています。ですが、法律を守る限り、異性の親は子供を持てるし、その子供を問題なく社会生活に迎えることができます。そして、仮にそうした医療行為に反対する人がいても、天理教の教会全体がその方の道徳観を寄ってたかって非難することはないように思います。
しかし、同性のカップルに対しても、異性のカップルと同じ反応になるでしょうか。 伝統的な考えを持つコミュニティでは、非常に強い拒否反応が生じ、信者間で衝突や分裂を招く危険があると考えられます。天理教は若い宗教ですが、依然として非常に伝統的な家族観を持っています。
ただ、天理教の信者は親切で優しい人が多いので、同性カップルの子供たちも、天理教のイベントや活動に楽しく参加し、みんなと仲良くできるのではないでしょうか。実際の現場では、『おふでさき』に
一れつのこどもハかわいばかりなり
とこにへたてわさらになけれど(XV, 69)
と書かれている通り、何の分け隔てもしないでしょう。
したがって、表面上は、すべての子供が家庭環境に関係なく天理教の活動を楽しめると思います。しかし、同性の親を持つ子供たちの家庭環境そのものについては、教理に基づいた見方を頭の片隅においておかないと、深刻な問題を引き起こすかもしれません。
元始まりのお話に基づくと、人間は男性と女性の両方の性質から生まれたと考えられます。
いざなぎといざなみいとをひきよせて
にんけんはぢめしゆごをしゑたVI, 31このもとハどろうみなかにうをとみと
それひきだしてふう/\はちめたVI, 32
いざなぎと魚は男性を表し、いざなみと蛇は女性を表しています。また、おつとめの第二節にも次のようにあります。
ちよとはなし かみのいふこときいてくれ
あしきのことはいはんでな
このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし
このように、人間は男性と女性から生まれたことがわかります。だからこそ、私たちは異性カップルの原則を尊重しているのです。言い換えれば、妻と夫からなる伝統的な家族の形を守るのが理想と教えられます。
しかし、この元始まりのお話から、十全のご守護が教えられてもいます。『天理教教典』の第3章と第4章を読んでみてください。この十全の守護の中で説かれる男女の性差と補完性を理解することが、将来の多様な家族と共存するための重要な鍵になると思います。
十全のご守護の役割は、自然界と宇宙におけるすべての働きをつかさどるものとして考えられます。しかし、これらは一人の人間の命の働きでもあります。男性でも女性でも、このご守護はすべての人々に共通して存在しています。十の守護のうち、五つが男性を、残りの五つが女性を表しています。言い換えれば、一人の人間の中に男性と女性の二つの性質が同じ割合で存在しています。
つまり、見た目や身体機能で性別の違いはありますが、一人の人間は女だけでも、男だけでも成立しないということです。むしろ、すべての女性に男性的な部分が、すべての男性にも女性的な部分が半分半分の割合で含まれていると考えるのが正しいのです。
さて、結婚に関しておやさまは『おふでさき』で、秀司様の縁談を例に、いんねんによる結びつきについて説かれています。
せんしよのいんねんよせてしうごふする
これハまつだいしかとをさまるI, 74
またおさしづには、縁談について
縁談一つ、心と/\縁繋ぐ事情、心と心繋いだら生涯と言う。(明治28年6月24日)
とあります。
もちろん、当時、縁談は男女の結びつきであることが前提です。同性婚を想定してお言葉が下されるはずはありません。また、天理教において結婚は、他宗に見られるような教義上の強制力をもちません。縁談は心と心のつながりと教えられています。ご存じのように、天理教では、心は自分のものであり、自由に使う事を許されています。
この観点から見ると、おやさまが教えた「夫婦」という概念がさまざまな意味を持ちうることが理解できます。それはもちろん、伝統的な結婚を含みますが、PACS(連帯市民協約)などの、結婚や宗教的な誓いを必要としないパートナーシップも含まれるでしょう。さらに、カップルとしての役割が十全のご守護によって機能するのであれば、たとえで一人であっても、家庭における二親の役割は機能すると言えます。こう考えると、同性のカップルや同性の親が、両親の役割を果たすことも可能だと言えるのです。
伝統的な家族の概念を肯定する教理的な根拠を見つけることはできます。しかし、同性カップルで構成された家族を完全に否定できる教理的な根拠は存在しないように思われます。
私の考えでは、さまざまな家族の形を天理教として祝ってあげるかどうかの決定は、それぞれの教会や布教所が判断し、個人の経験則に基づいて行えばいいと思っています。しかし、十全のご守護のお働きに基づいた教理の判断基準は必要だと思います。
子供を育てるには、ほとんどの場合、家族が必要でしょう。孤児や親に捨てられた子供、ステップファミリーの子どもなどももちろんです。また、私には理解しがたいところですが、体外受精や精子提供、代理母などの医療技術の使用に正当性もあるかもしれません。いずれにしても、同性カップルとその家族の数は増えていくと思います。
そして、既に述べたように、天理教の教えには、これらの家族を拒絶する理由はありません。ただ、家族という概念を、欲や利己的な目的で濫用することは、気をつけなければなりません。心の使い方の基準になる八つのほこり、すなわち「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」や、「うそ」と「ついしょう」を常に念頭に置いて、教理と倫理のバランスをとらなければなりません。
勘違いされないように言いますが、私は伝統的な家族観を否定するつもりは全くありません。人類の大多数は、異性の夫婦からなる家族で続いていくでしょう。しかし、忘れてはならないのは、私たちが求める限り、18世紀末にお生まれになられたおやさまの教えが、どんな問題にも対応策を提示してくれるということです。今述べた家族の問題はその一例に過ぎません。どのような時代が来ても、教祖の教えはいつでもどこでも私たちを助けてくれるという事を頭に置いておきましょう。
ご清聴ありがとうございました。