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2025年6月月次祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長 津留田正昭

教典の第9章「ようぼく」の一節に、

ようぼくの使命はたすけ一条にある。それは自ら励んで天の理をよく心におさめ、身を以て教えの実を示しつつ、一言の話を取り次ぐにおいがけに始まる。そして、更に進んでは、なんでもたすかって貰いたいとの一念から、真心をこめてさづけを取り次がせていただくところに、珍しいたすけの実が現れる。

と、信仰者の通り方を教えていただいております。

親神様は

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから(第十四号25)

と思召され、この世と人間を創造されました。教祖は、私たちにこの世の元始まりを教えられ,元の親を教えられたことが教えの根本であり、最も重要な点です。私たち人間は皆親神の子であり、人間はお互い兄弟と教えて下さいました。兄弟だからこそ助け合い、支え合って生きることを教えられました。

しかしながら、現実の自分の周りや世界の情勢を見渡すと親神様の望まれる世界とはかけ離れた姿になっていることに対して、ようぼくとして、天理教の信仰者として何をしたらいいのかと考えてしまいます。また、自分の小さな力では何もできないとさえ考えてしまっていないでしょうか。私もそのように感じることがよくあります。

親子、夫婦、家族の中でも争いが絶えないのが現実です。世界を見ても、自分の権利を主張し利益を追求することから戦争、内紛があちこちで起こっており、終決の目途さえ見えません。経済的に豊かな暮らしが人生の目標のようになり、自分さえよければと欲にまみれ、人の心を傷つけながら、勝ち負けのなかで生きているのが実情であると思うのです。本当に残念ながら、人間の暮らしは、親神様が望まれる「陽気ぐらし」と離れた姿ではないでしょうか。

このような人間の姿について、ある大学の学者が次のように警告を鳴らしています。「サル化する人間社会」という書籍のタイトルのように、人間がサル化しているという研究が発表されました。今日は、その内容のごく一部を紹介させていただきます。

書籍の冒頭に、

「長年、サルやゴリラの群れに入り込んで観察を続けていると、人間とゴリラの違いよりも、ゴリラとサルの違いの方が際立っていることに気付く。近年ゲノムの全配列が解読されて、実際にそれが証明された。その違いを社会で観てみると、人間とゴリラはサルのような優劣に基づく社会を作っていないことにある。 人間は、多産の能力を身に着け、やがて大脳化を実現して共同保育を基本とする社会を作った。それが、言語が登場する前の共感社会であり、人間の身体も心もその社会に合致するようにできている。ところが現代の科学技術は個人の能力と価値を高めるように働いたために、人間社会はサル化し始めた」というのがこの研究者の問題提議です。

そして、人間には、具体的に次のような基本的な特性を持っていると考えられると定義しています。人間、ゴリラ、チンパンジーには「共感」(Empathie)という能力が備わっている。「共感」とは、相手が感じているものを感じられる能力のことで、相手が痛い、悲しいと思えば自分も同じようにその感情を抱くことができるということです。相手の表情やしていることを見ているとその気持ちが分かる、というのが「共感」と言われています。サルにも共感はありますが、サルは自分が持っている知識を他の仲間が持っていないことが分からないという違いがあることです。すなわち、他者が感じていることが想像できないわけです。

例えば、サルは、川を渡る時に子どもが川を渡る知識を持っているのかどうかを母親は知らない。そのため、子どもを放って母親だけが川を渡ってしまう。すると子どもは渡れないので、置いてきぼりにされて泣いているということがよく起こる。しかし、チンパンジーやゴリラは、子どもが自分の持っている知識を持っていないことが分かるので、子どもを手助けする。例えば、母親が階段を上り下りしていて、赤ん坊も階段を下りようとする時に、階段の先にもっと高い段があったとすると、それに子どもが気付いていないと分かった母親は、手を差し出して助けてやる。予め分からないことを知っているので、先回りして助けてやるということをゴリラやチンパンジーはするわけです。

私たち人間も、当然その能力があるわけですから、本能的に危機を察知して助けられます。ここに人間やゴリラとサルでは大きな差があります。

さらに、サルは食物を分配しないと言われています。サルの食事風景をみると、食べるときは、一塊(ひとかたまり)にならない。弱い者は強い者がやって来ると食べている場所から退いて、食べ物を強い者に譲る。それがサルの社会のルールであり、一緒に食べるとトラブルを生じさせることになるので、絶対に一緒に食べず、 距離をとってトラブルが起こらないようにする。

一方、ゴリラやチンパンジーが美味しそうな果実を持っていると、それを見た小さなゴリラや子供のチンパンジーが寄って来る。そして、手を差し出したり、相手の顔を覗き込んだりして、食物の分配を要求する。驚いたことに、大きな身体のゴリラやチンパンジーは、小さな仲間のそういう要求を拒めないという習性があるそうです。

その結果、何が生じるかというと、まるでテーブルを囲むような距離を置いて同じ食物を一緒に食べる光景が生まれる。これはサルでは決して見られないものと、この研究者はいいます。

また、この研究者は、人間の最も大きな特徴は、「家族」と「共同体」という二つの集団に属して暮らしていることだと言っています。これは、他の動物では絶対にありえない不思議なことであると。

「家族」というのは、「こどものため」「親のため」という感情から多くのことを犠牲にして、見返りも期待せずに奉仕します。一方的な愛情表現としての行為です。それに対して、「共同体」というのは、通常、何かをしてあげれば、相手からも何かをしてもらえるというつながりです。人間は、このふたつの集団を上手に使いながら進化してきたと言われ、この点こそが、人間と動物を分ける最大の特徴であると論じています。

しかし今の世界を見渡すと、「家族」そのものが崩壊しているのではないかと思う姿が多くみえます。個人を尊重するあまり、人間として最も基本的な単位である「家族」が成立しなくなっていて、今の社会には家族という考えは合わなくなっているのではないかとさえ思えます。確かに、家族はつながりが深いから、それ自体が邪魔になるということもありますが、反面、大きな喜びや満足も与えてくれるのも事実です。食べ物を家族で分かち合い、共同体では共に子供を育てるといった行動は、人間の心を成長させて、高い共感能力を得ることができたのだと思います。

サルは、個々の存在を大切に生きていると言われています。集団で行動はしているけども、そこには序列が明確で、厳格なルールが存在して、それに沿って生きていく方が効果的だからです。決して、その集団に愛着があって生涯を過ごすという帰属意識はないそうです。ですから、共感能力も人間ほど得ることができないのです。

人間の身体や心には、他者の気持ちに共感する能力や危険を察知して助けるという行為ができる能力が備わっていて、また自分が手に入れたものを他者に分配することができる能力が自然に備わっているというわけです。今の私たちの常識からすると当たり前のことですが、このような研究の結果から人間の本質が見えてくるように思います。人間とは何なのか、一体どんな性質を持っているのかという疑問に答えるヒントがあるように思います。そして、親神様が、本来助け合いながら生きていくことができるものとして人間を創造されたことは間違いない事実なのだということが、この研究からも納得できるのではないでしょうか。

私たちは、家族や所属する会社、学校、また地域の中で暮らし、そこには悩み苦しんでいる人が多くいます。その人たちに対して、私たちはその苦しみや悩みを共感することは容易にできますが、そこから一歩前に進んでその人たちのために何をするのかというのが大切になってきます。それは、私たちの心の在り方次第なのです。自分は何もできないと決めることが一番良くない心の使い方で、人間本来、他者の心に共感できるわけですから、あとは一歩踏み出すことだけなのです。

その一歩を踏み出すには、強い気持ちといいますか、勇気が必要ですね。その勇気のもとになるのが教祖のひながたであり、教祖のお言葉にあるのだろうと思います。そして、こうして教祖の存在、教えを知っている私たちは、そのこと自体が本当にありがたいことなのです。人間本来の姿である助け合いの暮らしのうえに、自信をもって人のために生きる毎日を通らせていただきたいと思っております。私たちは、常に教祖から背中を押していただいていることを忘れずに一歩前に進む努力を続けていきたいと思います。

本席 飯降先生は、教祖から「朝起き,正直,働き」という三つの宝を頂かれました。そして、それを生涯守って、誠心誠意つとめられました。どんなことをされたのかと云いますと,飯降先生は,毎日教祖のお屋敷まで通って来られたのですが,その道中、壊れた橋の桁を修理したり,水たまりを掃除されたりしたと、聞いております。決して大きなことではなく、自分のできる範囲で,身の回りの些細なこと、目についたこと、自分のできる範囲から、助け合いを実行することは決してそんなに難しいことではないと思います。

私もこの思いを皆さんと共有して、これからも毎日を通らせていただきたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

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