Tenrikyo Europe Centre

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2026年1月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 長谷川善久

私たちは、只今一月の大祭をつとめ、そして教祖140年祭に際し、本部より決められた通り、ご存命の教祖のお社の前で、ご高恩に対する御礼と今後の更なる決意を述べさせていただきました。

今日の大祭をつとめる意義とは、当時の信者に「おつとめ」をつとめるようにと強く促された教祖の「ひながた」最後の日々を、私達がもう一度思い起こし、その親心を深く感じること。そして、そこから湧き上る感謝の思いから、自らも教祖のように、他者に何事も惜しみ無く与えることができる人となるべく努力を続けてゆく決意を新たにすることだと教えていただいております。

もし、他人の事を思いやる気持ちが、出張所で言われるほどには、どうしてもなれないという人がおられるのであれば、そんな人は、無理だと放っておかずに、努力を続けると同時に、親神様,教祖に対しても、自分の心持ちが変わっていくようにお願いをしてくださるのが良いと思います。参拝する時には、必ずみかぐらうたを唱和してください。そしてそこに歌われている神様からのメッセージと自分の生活ぶり、また存命の教祖と今の自分自身との関係について、静かに思いを巡らすことも有益だと思います。

親神様が教祖を通して私たちに望まれていることは、陽気ぐらしができる元のいんねんある魂の状態に立ち返るということです。

明治16年のこふき本である桝井本に

この度のたすけ教えるは、あしきをはらいて、陽気の心になりて願えば、神の心も人間の心も同じ事ゆえ、人間の身の内は神のかしものであるゆえに、人間心を勇めば、神も勇んで守護すれば、身の内あしきことはつとめ一条で、よろづたすけするというは、願い人はもちろん、つとめの人衆も真実よりたすけたいとの心を持って願う事なり。(中略)この者(教祖)は元の親のいざなみのみことの魂なるゆえに、何の何処の者でもたすけたい可愛いばかりの心なり。この者をひながたとして月日入り込み、たすけ教えることであるから、世界中の者、親里参り、親にたすけてもらおうと思うて願うなら、また、この親の心をひながたとして心入れ替えば、たすけはもちろん、善悪ともも神より返しをすること間違いなし。

とあります。

親神様の御守護を充分に頂くためには、教祖の勇んだ陽気な心を日々のひながたとして通り祈ることが大切なのです。

ちなみに、この「勇み心」について、私は「身の回りに起こる全ての事に喜びを見出だし受け入れようとせんばかりの積極的な心」だと思っています。

この心を作るために私達は、日々から「あしきをはろうとたすけたまえ てんりおうのみこと」と親神様に唱え、教祖の心に近づき、埃が払われた私達の陽気で勇んだ心に親神様の心が映るようおつとめをつとめるのです。また教祖の道具衆として、人だすけにお使いいただくようお願いさせて頂くのです。

私は、天理教信者が歩む道とは、親神様に向けた御守護への感謝と導きの親、教祖に向けた敬慕の念を固く持つこと。そして、それらを唯一の内発的な動機として発揚し、教祖が自らお示しくだされた真実の心で充たされた日々の通り方をまずは自らに対して行うこと。そして他者に対しても重ねていくことだと思っています。

この教祖が説かれた真実の心について、明治10年11月23日 桝井伊三郎 村田幸右衞門 辻忠作に伝えられたとされている教祖の口伝を少し長いですが紹介させていただきます。その口伝には真実について、次のようにあります。

日々通るには、真実の心になって、かりものと言う理しっかり心に治めて、親の心にそってつとめさせて頂くのやで。その心になって通れたなら自由用の御守護が頂けるのや真実とは、弱いものゝように思うけど、真実ほど強いものはないで、人が人を動かすこと難しい、なれど真実なら神がうごかすで、人を助けるのも真実、その真実には神がはたらくのや。

人が人を助けるのはむづかしい、なれど真実なれば神が助けさす。真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで、口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心というていても、その心にならなけりゃなんにもならんで。

日々通っている中に、我が身は誠やまことやと思うて通っていても、誠の中のほこりという道もあるで、よう思案して通らして貰うのやで。日々真実の心で通らして貰えたらなら、家々むつまじゆう暮させて頂くことが出来るのやで、めい/\我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や、真実やと思うて通っていても、心に真実なくばなんにもならん。目にも見えん、形にもあらわれんもの、心にその理なくばならん、人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで。

低い、やさしい、素直な心、いくら自分がその心やその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん、人に与えると言うは、人に喜んで貰う、人にたすかって貰う道を通ることやで、この心で日々通れたなら、どんな中でもつれて通るほどに。

ここで押えていただきたいポイントは次の3つです。

  1. 「人が人を助けるのはむづかしい、なれど真実なれば神が助けさす。」
  2. 真実の心とは「低い、やさしい、素直な心」
  3. 3つ目は「人に喜んで貰う、人にたすかって貰う道を通ること」

1「人が人を助けるのはむづかしい、なれど真実なれば神が助けさす。」
教祖も人がひとの心を変えさせることは難しいことは分かっておられます。しかし、私達が教祖に導かれるまま真実を出し切るなら、その心に対して親神様が働いてくださると教えてくださっています。人助けをする際に最も頼りになるのは、自らの心に生まれた真実の思いだということです。

2 真実の心とは「低い、やさしい、素直な心」。
ここでは、3つの心のありかたを挙げて下さっています。

天理教の三原典である「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」でも、列挙したときの順番がその重要性を示すように、私には、この「低い、やさしい、素直な心」という順番にもプロセス的な意味があるように思えます。

つまり、「やさしい、素直な心」を作り上げるためには、まずは「低い心」から始めるということです。「低い心」が日常的に持てるようになって初めて、次にくる神様が求める「やさしい心」を深めていくことが可能となり、「やさしい心」を見つめ続けた先に、最後の「素直な心」への挑戦が待っているということではないかと思います。

「低い、優しい、素直な心」と単純に聞けば、一見、小学校の教室に掲示されているぐらいの、簡単に理解、実行可能だと思わせてくれる言葉には違いありません。

しかし、私達が日々、陽気づくめの暮らしをするための心遣いは、本当にそのような社会一般倫理から来ているような言葉なのでしょうか。間違いなく違うと思います。「低い」だけをとっても違いは明らかです。

ここでは単なる人生教訓としての虚栄心や高慢の心を捨てるといった次元ではありません。それまで自分が親から受け継いだり、自ら築き上げたと思っていたことも全ては親神様からの「かりもの」であり、全ては神様からのお与えだと認識し、感謝すること。この思いから養われる「低い心」を言われていると思うのです。

大変平凡な3つの言葉ですが、信仰的な意味において会得するためには固い意志と努力、時間が掛るものであることに疑いはありません。

私自身も出張所という信仰的な心を培うのには最適な環境に置いていただいておりますが、まだまだ最初の「低い」で立ち止っている状態です。普段、つとめに出ておられる皆さんであれば、その難しさは容易に想像できます。

教祖の教えてくださったこの道は、目にも見えない、形にも表れない私達の心を鍛える道です。みなさんも、まずは教祖がその「ひながた」のなかで、まず貧に落ち切られたことからも「低い心」について深い思案を深めるのも良いと思います。そして何よりも実行を心掛けていただいてはいかがかと思います。

3つ目は「人に喜んで貰う、人にたすかって貰う道を通ること」
「低い、やさしい、素直な心、いくら自分がその心やその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん、人に与えると言うは、人に喜んで貰う、人にたすかって貰う道を通ること」とあります。

ここでは、自分の心遣いが神様の教えに叶っているかどうかは、相手が喜んでいるか否かが、私達の人に与えた心遣いが、真実であったかどうかの一つの判断基準であることを教えておられます。私達が歩む道は、他者との関わり合いのなかで自分の心を磨く道です。宗教と聞くと想像しがちな一人で厳しい修行を積んで心を鍛える道ではないのです。人が神様、その他者によって、自らの心、精神が成長を遂げていくと教えていただきます。

さて、来る今月26日にはいよいよ教祖140年祭がおぢばで執り行われます。

この三年間、精一杯努力できたという方もあれば、そこまででもないという方もおられるかと思います。満足された三年千日活動ができたという方には、心よりお労いを申し上げます。しかし、残念ながら自分自身でそこまで満足いくような三年間でなかったという方には、是非とも心の内を見つめ「なぜできなかったのか」を一度はゆっくり考える時間を持って頂きたいと思います。

年祭は成人の一里塚とお示し頂くように最終到着点ではありません。そうではなく、信仰生活の中での、成人の進み具合をチェックするポイントです。成人の歩みは一生続けていくものですから、例え今回の年祭活動の出来栄えがあまり良くなくても、まだ歩むべき道が目の前には続いていることに変わりありません。

今年は教祖年祭の年、そして私達のヨーロッパの道の新たなる10年の始まりとも言える年です。そんな思いを抱くとき、毎朝、『諭達第四号』を読ませていただく中で、次の二節が強く心に響きます。

よふぼくは、進んで教会に足を運び、日頃からひのきしんに励み、家庭や職場など身近なところから、にをいがけを心掛けよう。身上、事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願い、病む者にはおさづけを取り次ぎ、真にたすかる道があることを伝えよう。親神様は真実の心を受け取って、自由の御守護をお見せ下される。

教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである。

皆様方には、どうか年祭までの残りの日々を懸命におつとめ頂き、また年祭の当日には、年祭後も我々信者が「真実」の道を歩み続けることを教祖に申し上げて頂きたいと思います。

年祭の到来は、私達の新たなる門出です。親神様が受取り自由の守護をお見せ下さる私達の「真実」、お教えいただくこのお道の宝物をヨーロッパでも我々がしっかりと掘り下げ、磨き上げて、次世代に繋ぐことで、末代の幸せへと共々に向かってまいりましょう。

ご静聴ありがとうございました。

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