Tenrikyo Europe Centre
Loading ...
城山ミュンヘン出張所長 荒関美智子
現代は、本当に生きているという実感よりも、物事をうまくこなすことが重視される時代です。現代社会は、気づかないうちに、しかし確実に、私たちを「機能的麻痺」の状態へと導いています。私たちは社会や職場での役割をきちんと果たし、成功を重ね、整った日常生活を維持し、人前では非の打ちどころのない姿を保とうとします。仕事では高い成果を求められ、締め切りを守り、生活の細かな部分まで計画的に管理しています。しかし、そのために私たちは大きな代償を払っています。私たちは、「問題なく機能していること」を、本当の満足や幸せと取り違えてしまっているのです。心は麻痺しているのに、外からは順調に見える。私たちは、まるで人生を「待機状態」のまま生きているような状態に陥っています。
人工知能(AI)が人間の論理を模倣し、それをさらに効率化できる時代において、私たちの本当の価値は、もはや「完璧に機能すること」にはありません。もし私たちが、弱さを一切見せない完璧なアルゴリズムのように生きようとするなら、人間を人間たらしめているものを手放してしまうことになります。それは、不完全さであり、深く感じる力であり、ありのままの弱さを受け入れることです。失敗を避けるために感情を麻痺させるとき、私たちは自らを、生きたロボットのような存在へと変えてしまうのです。
この集団的麻痺の、恐ろしくも極めて現代的な症状が、私たちの日常生活の中でますます顕著に現れています。それが「ゴースティング(音信不通)」、つまり深い人間関係の真っ只中で、突如として徹底的な沈黙を決め込む現象です。人がある日突然、感情的に姿を消し、メッセージに返事をせず、あらゆる連絡を断ってしまうとき、その原因は本当の無関心や愛情の欠如であることはほとんどありません。
私自身、ベルリンに住むイタリア人の親しい友人がいます。彼女は非常に多くの仕事上・個人的な課題に直面しており、常にキャパシティオーバーの状態にありました。そのため、彼女はある日、何の前触れもなく完全に引きこもり、私の電話やメッセージにも応じなくなりました。連絡は途絶え、私たちとの接触はゼロになったのです。私は大いに驚き、悲しみましたが、時間が経つにつれて、彼女は自分の限界に達していたのだと理解しました。だからこそ、しばらく時間を置いた後、彼女が再び息をつけるような時間と心のゆとりを残すようにしたのです。それ以来、私たちは非常にお互いを尊重し合う関係を築けています。彼女は休息の時間をとりつつ、自分が抱えきれないほど負担を感じているときには、そのことを率直に伝えてくれるようになりました。
このような関係のあり方は、ゴースティングとは真逆のものです。自分自身、また他者に対しても誠実であるのと同様に、完璧でなければならないという思い込みについて手放すことは、親神様の思し召しにも適うものです。
一方で、人が本当の意味でのゴースティングに陥り、完全に連絡を断ってしまうとき、その背景には、自分の弱さに向き合えないほどの大きな苦しさと、自分が失敗することへの強い恐れがあります。それは、相手の期待に応えられないのではないか、自分の弱さを見せることになるのではないか、あるいは面目を失うのではないかという、切実な恐れです。
ゴースティングや感情的な沈黙は、シェルターの中に閉じこもったエゴ(自我)の、最後の防衛手段とも言えます。それは、拒絶される前に自ら退くことで、何とか状況をコントロールしようとする試みです。人は他者から逃げ出します。なぜなら、その相手が映し出す自分自身の姿が、あまりにも鋭く、あまりにも真実であり、向き合うことが苦しいからです。私たちは日々の忙しさの中で体裁を守ろうとして、心と外の世界とのつながりを断ってしまいます。しかし、そのような意図しての安全への避難は悲劇となります。それは本当の意味での防御ではありません。むしろ、生きる力を失ったまま固まってしまった状態です。そして、自分自身からも相手からも、人間にとって最も大切な経験である、ありのままの親密さや本当のつながりを奪ってしまうのです。
ここで、天理王命の教えは、自我が作り出すあらゆる言い訳に対して、はっきりとした答えを示しています。
神様は、私たちがプログラムされたロボットのように、決められた動きを繰り返すためにお創りになったのではありません。まして、沈黙や高慢さの壁の後ろに隠れながら生きるために、お創りになったのでもありません。
私たちが生きる意味は、間違いのない完璧な姿を演じることではなく、「陽気ぐらし」を実現することにあります。そして、その生き生きとした陽気ぐらしは、自分を偽らず、ありのままの姿で生きる中でこそ味わうことができるのです。
私たちが固定した思い込みにしがみつき、失望や批判を恐れるあまりに本当の感情を否定したり、約束を破ったり、自分にとって本当に大切な人との連絡を絶ったりするとき、それは「精神のほこり」です。これは分かりにくいものです。プライドや、「自分は一人でやれる」という思い、あるいは「今は余裕がないだけだ」という気持ちの姿をとってしばしば現れます。しかし実際には、そのほこりが心の鏡に積もり、神様の光を遮ってしまうのです。そして私たちは、その光の源から遠ざかってしまいます。
私たちは今一度、「かしもの・かりもの」の理という根本の真実を思い起こさなければなりません。私たちの身体も、呼吸も、知性も、エネルギーも、深く感じる力も、愛でる力も、すべて自分の所有物ではありません。それらは、自分の都合で閉ざしたり、止めたりしてよいものではありません。恐れや反発の気持ちから、自我の思いどおりに扱うためのものでもありません。それは「神様からの借り物」なのです。
私たちが感情を麻痺させるとき、また、葛藤への恐怖や、劣等感、成長に伴う痛みを恐れて沈黙の中へと逃げ込むとき、私たちはこの「借り物」をその本来の目的とは違う形で使っていることになります。神様は、私たちが互いに響き合い、つながり合い、ときにはぶつかり合いながらも、生き生きと自分を表していくために、この身体をお貸しくださいました。しかし私たちは、その働きを止めてしまっているのです。
本当のひのきしんは、外に見える行いから始まるのではありません。それは、私たちが隠れ家から一歩外に出る、まさにその瞬間に始まります。傷ついた経験も、願いも、迷いも含めて、このお借りした人生をありのままに人々や社会へ返していこうとする、その心から始まるのです。
これは親切なアドバイスなどではありません。今ここにいる私たち一人ひとりへの、根本的な目覚めへの呼びかけです。私たちは、内なる大掃除「命の掃除」をする勇気を持たねばなりません。それは、自分の心の中にたまった重荷を見つめ、コントロールを失うことへの恐れや、傷ついたプライド、自我から生まれる競争心を取り除いていくことでもあります。
人生の大切な場面で向き合うことを避けたり、自分を閉ざして孤立したりすると、人は生きたつながりの中で自分の声を失ってしまいます。私たちは、感情を否定し続けたり、恐れから人との関わりを避けたりすることで、神様からお借りしている尊い人生を粗末にしてはなりません。沈黙の中に閉じこもることや、仕事や社会生活を滞りなくこなすことだけを、美徳だと思うのはもうやめましょう。
今こそ、シェルターから出るときです。仮面を外し、余分なプライドを手放し、もう一度お互いの顔を見つめ合おうではありませんか! 神様は、欠点のない完璧な人生を演じることを私たちに求めてはおられません。それが真実なのです。義務や肩書、あるいは人との距離の後ろに隠れた、冷え切った心を望んでおられるのでもありません。神は私たちの生命力を感じたいのです。神様がお聞きになりたいのは、私たちの笑い声です。それは、誰かに合わせて作った笑いではありません。勇気を持って生きる人の笑いです。弱さを隠さずに生きる人の笑いです。そして何より、本当の自分として生きる人の笑いです。そのような生命の喜びこそが、神様がお望みになる陽気ぐらしなのです!